みすず書房

水野真木子・内藤稔『コミュニティ通訳』

多文化共生社会のコミュニケーション

2015.02.27

「コミュニティ通訳」という言葉を、ほんの数年前まで知らなかった。
社で同僚編集者が手がけた通訳学・翻訳学の一連の刊行書の、内容紹介文で知った言葉だった。つぎに、佐藤=ロスベアグ・ナナ編の論集『トランスレーション・スタディーズ』を担当する機会に恵まれた。翻訳という視点から領域横断的に研究するトランスレーション・スタディーズの地平をとくに日本と東アジアの文脈で見わたそうという若々しい論集で、コミュニティ通訳はその重要な第4章を構成していた。
その第4章の解説者が、水野真木子先生だった。水野先生はすっぱりと平明で、かつ将来に対してつねに前向きな文章を書かれる。

新刊『コミュニティ通訳』は、グローバル化、国際化が進展しているといわれる現代の日本の地域社会が、じつのところどのような状況にまで来ているかの丁寧な解説から書き起こされている。1980年代後半以降のこの20-30年のあいだに、国の受け入れ政策がどのような流れで変化してきているか、「国際交流」から「国際協力」さらに「多文化共生」へと、なるほど聞けばそうだったかと思いはするものの、はっきり意識したことがなかった。そして、それでも現在にいたるまで、日本にやって来た外国人が長期あるいは永久的に居住するという想定が根本から欠けている、とは初めて知ってずいぶん驚いた。

国とはなにか、日本民族とは、と問うのはいつでもだいじなことだと思う。けれどもこの本に書かれているのは、「日本に住民登録がある」「日本語話者ではない」といった曖昧さのない指標がいくつかありえて、しかもそこから出発するしかないくらい切迫した実情がある世界だ。
「危急」と形容するには、もしかしたらいくぶんそぐわない場面もあるかもしれない。医療通訳・司法通訳・行政通訳の章はいずれも通訳現場の一シーンではじまるが、それは、妊婦検診で「よくわからないが女の子」といわれた一家の話だったり、市役所の相談窓口へ閉まるぎりぎりにやってきて、なかなか口を開かない女性の話だったりする。たしかに、生命がかかっていて一刻の猶予もないというのとは違う。しかし、当人の身になってみれば切実だ。どうでもいいことだなんて自分ならきっと誰にもいわせまい。生活がかかっている。
本の編集が進むうちに、たとえば近所のバス停で行きあう、日本語をほとんど話そうとしないでわが子以外の周囲のすべてに心を閉ざしているようにみえる若いおかあさんが、小学校にあがった子を学区外まで毎日送り迎えしているらしいのは、もしかすると言葉の支援を受けるためかもしれないなと想像するようになった。特別支援学校が日本語指導をひきうけるケースなどもあると、もうおひとりの著者、内藤先生からうかがったからだ。内藤先生は、学校での通訳に関して、とりわけ熱意をこめて話して下さった。学校通訳や教育通訳などという専門の肩書きはないこと。日本国籍のあるなしにかかわらず、家庭内で日本語以外の言葉で暮らしている子がたくさんいること、だから「外国につながる子どもたち」という捉え方が有効なこと。教室の内でも外でも、子どもひとりひとりのかたわらに付き添えるような態勢は一般にととのっていないこと。学校では通訳だけでなく翻訳が必要な場面も多いこと(教科書や学習プリントのほかに、家庭向けに配布されるさまざまの連絡用の印刷物など)。掃除の仕方や給食、文化によって異なる服装やアクセサリーのきまりも含めた生活指導から、進路指導や、児童生徒本人だけでなく保護者と学校間のコミュニケーションまで、通訳者に求められる役割はじつに幅広いこと……

外国人労働者の受け入れ拡大と「技能実習制度」悪用の過酷な事例、東京オリンピック/パラリンピック開催に向けた通訳ボランティア募集と育成計画、夜間中学で日本語を学ぶ人たちが増えていること、大地震などの災害時に地域住民のあいだで情報格差を生じないためには、それに、難民受け入れ制度の見直しをめぐっての極論を含めたさまざまのレベルの論議。ごく最近の新聞記事だけでも切り抜きが手もとにどんどんたまる。
これまで医療・司法・行政分野の通訳は、それぞれの領域ごとに担われ、管轄され、発展してきていることがこの本で解説されている。分野によって特性が異なることも、じゅうぶんに説明されている。そのうえでなお、それらの分類を「コミュニティ通訳」の概念でくくって、その次元でものを見てみる、考えてみる必要のあることが、読んでいくとすとんと胸におちる。書籍編集という仕事をとおしてこのテーマに出会えたのはどんなにか幸せなことだと思う。