みすず書房

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アンゲーリカ・クレプス『自然倫理学』

ひとつの見取図 加藤泰史・高畑祐人訳

シリーズ《エコロジーの思想》に、斬新な原理倫理学を打ち立てるアンゲーリカ・クレプスの著が加わります。

常識にかなったエコロジーをめざして

「地球にやさしく」「自然にやさしく」といったスローガン、いやむしろ言葉づかいに、どこか違和感をおぼえたことはないだろうか。

違和感の第一の理由はこうだろう。地球や自然は私たち人間を生かし扶養しているのに、逆に私たち人間が地球や自然の庇護をしたり面倒を見たりできるかのような、本末転倒というか、身のほどをわきまえない思い上がった傲慢さが、こうした言い方から感じ取られるからだろう。
違和感の第二の理由はおそらくこうだ。「~にやさしく」という言い方は道徳的である。道徳的にケアされる対象はまず人間、あるいはせいぜい主体性をもった生き物に限られるべきで、地球や自然といったそれ自体は生き物ではないシステム全体にまで適用されてはたまらない。私たちは水や風にまでやさしくしなければならないのか、というわけだ。

こうした違和感はいわば兆しであって、いってみればなんとなく“いやな感じ”といったほどのものだろう。でも、そんな“いやな感じ”の根拠を論理的に突きつめていくと、自然に対して人間が取る、大きく分けて二つの態度が現れてくる。人間中心主義と自然中心主義である。

第一の理由は人間中心主義に対する違和感、第二のそれは自然中心主義に対する違和感、ということになる。そしてこの二つの違和感は、おなじ一人の人間のなかでごく当たり前に両立可能である。つまり、私たちがごく常識的に、日常的にいだいている自然に対する見方や態度は、人間中心主義的でも自然中心主義的でもないのだ。

これまで環境倫理といわれる分野の議論は、とかく自分たちの立場を「人間中心主義」か「自然中心主義」かに大別して、一方が他方を論難する、ということに費やされてきた(ソーシャル・エコロジーは人間中心主義でディープ・エコロジーは自然中心主義、云々)。このままでは議論は不毛であるばかりか、常識にも支持されないだろう。それに対してアンゲーリカ・クレプスは、いわば常識を研ぎすまし洗練することによって、どちらの立場にも立たずしてどちらの立場に対しても説得的なロジックを展開する。
これまでなにかと批判されてきた「人間中心主義」は、自然をあくまで人間が生きるための手段、つまり「道具的価値」と同一視していた。クレプスが提唱する「啓蒙された人間中心主義」は、自然に内在する美や崇高、そこに没入することの無償の(利害関心のない)悦びといった情感的固有価値、さらにはハイマート(故郷)や神聖さといった幸福論的固有価値を、自然のなかに認める。
また、いわゆるエコロジストたちが要求している「自然中心主義」は、あらゆる生命を無条件に尊重せよ、とか、自然を自然それ自体のためにケアせよ、といったように、いかなる価値評価主体(つまり人間)も伴わない絶対的で超越的な価値を、生命や自然に与えてきた。これはほとんど神学的議論と同型で、従来の「神」を「自然」に置きかえたにすぎない。いっぽうクレプスの「拡張主義的自然中心主義」は、絶対的価値を受け入れず、人間の道徳文化の要素、とくに他者の幸福に対する尊重を自然にまで拡張する。

「自然倫理学は人間中心主義であることになるのか、それとも自然中心主義であることになるのか。自然倫理学は道具的に切り詰められた意味で人間中心主義であってはならず、(…)むしろ穏健な自然中心主義で、より厳密には感覚中心主義であるべきである。しかし、自然倫理学は依然として認識的な意味においては人間中心主義にとどまらなければならない」。

本書を読んだなら、もう私たちは「地球にやさしく」といった言葉づかいに惑わされることはない。これまでどおり「人にやさしく」で充分である。そしてこの“人”のなかに、近く、もしくは遠くにいるすべての他者のみならず、未来に生きるはずの人たちや、感覚能力をもつ動物をも含めることが常識になるような社会を、これからめざしていけばよいのだ。常識にかなったエコロジーはここから始まる。




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