みすず書房

D・N・レズニック『21世紀に読む「種の起原」』

垂水雄二訳

2015.11.10

150年も前に書かれた『種の起原』という一冊の本について、21世紀に生きる私たちが深く知ろうとするのは何のためなのか? 著者レズニックは本書の序文でそれについて持論を述べている。進化の本質について知ることができるからだろうか? 生物界全体について、そして私たち人間の来し方と行く末について、進化のフレームを通じて見つめ直すことができるからだろうか? あるいは自然淘汰や種分化といった重要なメカニズムについて、深く知り考察することができるからなのか?

これではまだ完全な論拠とはいえない。いまでは同じ情報を得られる別の情報源もあるのだから。『起原』を読めば、科学がどのようにして進化するのか、将来の研究によって対処すべき未解決の重要な疑問をどうすれば明らかにできるかに関しても、本質的な認識が得られる。これが、学部学生向けの授業カリキュラムに『起原』が含まれつづけている理由である。
しかし私は、生命科学の学生よりももっと大きな読者に狙いをつけている。『起原』を読めば、どんなレベルのどんな読者でも、科学の構造と「理論(セオリー)」という言葉の意味について、重要な教訓を学ぶことができる。(本書「序」より)

『種の起原』の読解本であるレズニックの『21世紀に読む「種の起原」』では、そのことがはっきりと中心に据えられている。たとえば「理論」と題された第III部の冒頭では、「理論」とは何か、そしてダーウィン説がなぜ「理論」なのかを、ダーウィン説とメンデレーエフの周期律表を比較しながら論じているのだが、このアプローチがほんとうに素晴らしい。

せっかくなので、ここで中学の理科の教科書に載っている元素の周期表のイメージをぼんやり思い出してもらいたいのだが、あの地味な表が、化学者にとってはインスピレーションの汲めども尽きぬ源なのである。ハイテクの装置が林立する21世紀の実験室では、メンデレーエフ自身には想像もつかなかったような高度な技術や理論を使った化学反応が探究されているが、今でも周期表は研究者たちの最大の拠り所である。あの周期表を眺めながら「Rh(ロジウム)を使って実現しているかくかくの反応は、(周期表でお隣の)Ru(ルテニウム)ならしかじかの方法でできるのではないか?」などと日々ワイルドな仮説を膨らませることが、今日でも重要な発見につながっている。

元素の周期律という枠組みは、それまでバラバラだった種々の元素のあいだを縦横の線でつないで立体的な関係図をつくりだした。すでに知られていた元素やそれら同士の反応についての理解を深めただけでなく、立体図に空いていた「穴」から、未知の元素の存在やその性質まで予測された。統合と予測。それらを具体的にもたらしたうえで、周期律表はそれ以上の何かになった。レズニックが下の一文にまとめている。

この周期律表のもっとも重要な側面は、元素の構造についてのその後の知識の拡大、新しい元素の発見、新しい現象(放射能、原子を構成する素粒子、核融合、核分裂など)の発見、さらにこうした情報のすべてが物質の構造に関する現代的な理解への究極的な統合につながる、中心的なモデルとして役立ったことである。(本書p. 282)

そして、この意味での「中心的なモデル」を、生物学の分野では『種の起原』が提供したのである。

それは偶然の成り行きではなかった。ダーウィンと同時代の哲学者ウィリアム・ヒューウェルが「多様で、一見無関係に思える現象を単一の枠組みのもとに統一できる理論」こそが科学理論の理想であるとしていたのを受けて、ダーウィンはそれを意識して『種の起原』を書いている。レズニックの本の「第III部 理論」では、一貫してこうした観点から『種の起原』の後半の章を丁寧に読み解いている。その構成の点でもレズニックの本はじつによく考えられていると思う──大局的にも細部においても、ダーウィンの狙いがとてもわかりやすい。『21世紀に読む「種の起原」』全体を読むなかで、メンデレーエフの周期律表同様にダーウィン説がもっている統合力と予測力を随所で目の当たりにして、思わず感嘆せずにはいられない。

レズニックは「学部学生向けの授業カリキュラムに『起原』が含まれつづけている」と書いているが、これはおそらくレズニック自身教鞭をとっているカリフォルニア大学リバーサイド校をはじめとする、アメリカの大学(しかも、エリート校?)の話だろう。日本の大学の生物学系のカリキュラムでは、『種の起原』はほとんど顧みられていないと聞く。今日では、『種の起原』を知らなくても何の不都合もなく生物学系の研究者になれるのかもしれないけれど、知っているのと知らないのとでは、研究の発想の基盤のあり方に違いが生じないだろうか。生物の世界をつぶさに見つめ考えることでどれほど気宇壮大なことができるかについての、想像力のダイナミックレンジが違ってきそうな気がするのだ。