みすず書房

池内了『科学・技術と現代社会』

全2巻

2014.10.24

我思う、故に……

池内了

科学と社会の関係をもっと掘り下げて考え、科学を学ぶ学生や院生の教育に活かさねばならないと考えるようになったのは、1995年のことであった。この年の1月に阪神・淡路大震災が起こり、3月にオウム真理教事件が勃発し、12月に高速増殖炉「もんじゅ」のナトリウム漏出事故が引き起こされ、というふうに科学や技術に関わる3つの異なったタイプの大きな事故・事件が相次いで起こり、その原因や今後の科学の在り方について考えさせられたためである。

実際に考え議論したことは、震災では地震の予知と複雑系の科学について、オウム真理教事件では大学における科学の教育について、そして「もんじゅ」の事故では原発に関わる技術についてであり、どれ1つでもさまざまな角度から議論でき、かつ社会と深く関わり合う科学の話題であった。ちょうどその頃から新聞などに科学評論の文章を寄稿していた私は、この年から本格的に専門分野を宇宙物理学から科学・技術・社会論に移し始めることになったのである。

私が特に意識したのは科学の社会的受容に関わることで、複雑系の科学なら明快な解答が出せない科学と私たちはどう付き合っていくか、大学における科学教育なら「科学主義の野蛮性」(オルテガ・イ・ガセットの言葉)をどう考えるか、原発についてはその危険性をどう伝え撤退の道を探っていくか、というふうに市民と対話する感覚で、しかし科学を批判的に観る視点を忘れずに問題を投げかけることを実践していくというものであった。

それから19年が経った。この間、私は本式に自らの専門を科学・技術・社会論とすることにし、科学を学び、そして将来も科学と携わっていくことを目指す学生や院生に対して「科学と社会」に関する講義を担当するようになった。科学者を志す若者が倫理規範をしっかり身に付け、市民から信頼される科学者として育って欲しいと願ってのことである。あたかも科学が社会の主人公であるかのように振る舞うようになった状況に、ある種の危機感を持ったためでもあった。

と同時に、どの問題も学生や院生の1人ひとりの倫理に問いかけ、それぞれが自分としてどう判断するかが迫られるようになったことも指摘しておかねばならない。つまり、私が「これが正しい答えである」と提示できる正解は存在せず、「「我思う、故に……」で、それぞれがきちんと考え、それぞれの信条に沿って自分の意見を選択していくしかない」としか言えなくなったのである。いわゆる「トランスサイエンス問題」が多くなり、科学のみでは答えが出せず、広く哲学や倫理や社会的考察まで含めて考えなければならない問題に遭遇することが増えたからだ。実際に、ごく最近に学生諸君と議論した問題を挙げてみよう。

複雑系に関わる問題では、3・11の原発事故によって生じた微量放射線被曝をどう考えるかの問題である。ICRP(国際放射線防護委員会)のような有力な国際機関ですら「国際的原子力ムラ」という批判を浴びているのは、現在の放射線防護学が政治的に偏向している側面があるためだ。科学的に明快な答が出せない複雑系の科学にはそのような要素が入り込みやすいのである。市民から問われたとき、私たちは国際的な機関であるという権威に頼ることなく、自分自身の頭で考えて自分なりの判断をしなければならない。

科学教育に関することでは、科学の不正行為が頻発しており、(STAP細胞事件でも明らかになったように)倫理意識に欠けた科学者が増加していることは事実である。その背景として、科学研究に商業主義が入り込み、また競争原理がいっそう苛烈になっていることが指摘でき、研究現場が荒れ始めていることが窺えそうである。科学が公明正大であり続けるためには、個人の倫理意識に頼らざるを得ないのだが、それが揺らいでいるのだ。ごく最近の問題として、防衛省が大学・研究機関との共同研究に本腰を入れようとしており、安倍政権の後押しもあって科学の軍事利用が本格化する気配である。研究費の獲得のためには、人殺しの手段となろうとも軍事研究に手を出すような科学者集団になっていくのだろうか。科学の場の変質に対抗するには倫理しかないことを痛切に感じている。

原発に関しては、再稼働がいよいよ本格化する状況になりつつあるが、原子力規制委員会の技術的側面のみに絞った審査基準のおかしさや、その結果を最大限に利用しようとしている政府や電力業界の動きが露骨である。そして、たとえ再稼働によって原発事故が起こった場合、誰も責任を取ることにならないだろう。そのような無責任体制の日本に果たして原発を動かす資格はあるのだろうか。

1995年の事故・事件から引き続き考えてきたこれらの問題も含め、さらに広げて私なりの意見をまとめたのが『科学・技術と現代社会』である。今後、科学と社会の関係がよりいっそう緊密になり、「我思う」ことが強く求められるようになるだろう。そのよすがとなれば幸いである。

copyright Ikeuchi Satoru 2014

* このエッセイは出版情報紙『パブリッシャーズ・レビュー』2014年9月15日号第1面にご寄稿いただいたものです。著者のご同意を得て全文転載しています