みすず書房

[倉谷滋・書評]レズニック『21世紀に読む「種の起原」』

垂水雄二訳

2015.10.26

倉谷滋・理化学研究所主任研究員(倉谷形態進化研究室主宰)に、本書の長文書評をご執筆いただき、月刊『みすず』2015年10月号に掲載いたしました。
その全文を、著者のご同意を得てここに転載いたします。

自然観の歴史と科学の歴史

──デイヴィッド・N・レズニック『21世紀に読む「種の起原」』を読んで
倉谷滋

時代とともにパラダイムが変わり、それによって評価も変わる。著者レズニックが本書の冒頭に述べているとおりである。近代遺伝学の存在しない19世紀中葉に書かれたダーウィンの『種の起原』に関してよく指摘されるのは、メンデル遺伝学を知らなかったダーウィンが、育種の解釈に必要以上に苦労していること、そして彼が、遺伝因子として血流をめぐる架空の液性因子、「ジェミュール」を想定していたということである。つまり、われわれが知っている、「素子」としての遺伝子ではなく、互いに解け合い混ざり合う、絵の具のような遺伝因子のイメージを彼はもっていたわけである。しかし、それ以上に興味深いことは、ダーウィンにとって「遺伝」が、「表現型の直接の伝播」であったということではなかろうかと私は思っている。

ダーウィンは中年になってリューマチか何かを患った。そのとき彼は、自分の父親も同じ症状に悩まされていたことに思い至るが、彼の疑問とは、「自分が生まれたときに、父親は発症していなかったのに、どうしてそれを自分が受け継ぐことになったのか」ということなのであった。ついこの間まで、DNAに書かれた遺伝情報だけが子孫に伝わると信じていた生物学者であったなら、「ダーウィンには、遺伝子を通じて受け継がれたものが、特定の疾病に罹る素質だということが判っていなかったらしい」とでも言って、その勘違いを一笑に付したことであろう。

しかし、エピジェネティック遺伝現象を知る現在のわれわれには、むしろダーウィンの疑問の方がある意味現実的に聞こえてくるのである。というのも、塩基配列だけではなく、DNA鎖上に刻印される別の情報があり、親の後天的な状態が子に影響しうることを知っているからだ。つまり、現代エピジェネティックスの観点に立てば、ダーウィンの疑問にも一理あるという解釈が可能な時代になってしまったのである。

かくして、科学はその時代時代のパラダイムや哲学の下にあり、過去の学者の知恵を後世の学者が理解し、検討することの喜びは、時代性と対峙しながらの自然観の構築に努力した彼らの並々ならぬ能力に瞠目する瞬間にある。あの頃自分が生きていたとしたら、果たしてこれだけの洞察をなしえていただろうかと……。『種の起原』は、その種の喜びを与えてくれるテキストの一つであるには違いない。

が、残念ながら、私自身は『種の起原』の中にその種の喜びを感じたことはない。なにしろ、文章が晦渋で、理屈っぽいのが苦手なのだ。私は形態学者であり、理詰めの科学議論は苦手なのである。そんな私にも見過ごせないのが、本書22章(『種の起原』第13章)で扱われる、形態進化と発生についての議論である。階層的な多様化がすなわちタクサ(分類群)の階層を作り上げ、それが「変異を伴った由来による」ものであるということは上手く表現されており、実際、現在の生物学では、発生拘束の系統的分布がすなわち分類群を作り上げるということを謳っているわけだが、だからといって動物の比較形態学を通してダーウィンが系統分類学の基礎をここで述べているわけではない。

そもそも、多様な形質の分布と、それらが示す階層的な「不完全相同性」については、ダーウィンに先んじてリチャード・オーウェンが余すところなく述べていなかったか。そして、ダーウィンがこの多様化の背景に「(創造主による)プランの痕跡はない」としながらも、そこに階層という秩序を見出しているのなら、やはり彼も「プラン」という概念の効用を認めていたのではなかったか。『種の起原』の第13章は事実上、ダーウィンとオーウェンがガチに戦っている箇所なのだが、果たしてそれは本来的に白黒決着の付く土俵だったのであろうか。どうも私には、相同性という現象に対する解釈の違いにすぎないのではないかという気がしてならない。むしろこの箇所で私が実感したのは、進化論が受容される下地の出来つつあったあの19世紀中葉、同じ現象が別の解釈で整合的に語られていたことであり、また、『種の起原』というテクストそれ自体が、当時の自然観の変遷を進行形で示しているということなのである。

われわれヒトが他の動物と同じように合計4本の腕と脚をもっていること、そしてサメのような軟骨魚類も、鯛やヒラメのような硬骨魚類も、胸鰭と腹鰭という2対の対鰭をもっていること、果たしてそれは進化の証であろうか。多様な動物の体が決してデタラメな多様性を示しつつ不規則に分布しているのではなく、常にある種の「型」をもっている、あるいはそれに縛られているということが、そもそも形態学や分類学の始まりであった。しかし、そこに進化という、時間軸に並ぶ動植物のつながりを見始めると話がややこしくなる。形態的多様性の分布がどのような規則性や保守性(相同性)を示し、それが進化の何を語っているのか──「ダーウィンは最後に一番良いものを残しておいてくれた」とレズニックは本書では述べているが、果たして本当にそうであろうか。むしろ、最後まで手つかずに残るしかなかったことなのではあるまいか。なにしろ、それは、「見方を変えると、それまで先験論的に説明されてきたものが、こんな風に姿を変えて見えてくる」ということを取っておいたように見えるのだ。これはしたがって『種の起原』のそれ以前の部分によって示された結論が導く、ある種フィナーレとしての新しい解釈なのではないかと。

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博物学者のダーウィンにとって、解剖学者リチャード・オーウェンは形態学の教師であった。オーウェンにしてみれば、自分の学説がよりにもよって自分が目の敵にしている進化論の材料に使われたのであるから、しかも、自分自身の「教え子」にしてやられたようなものであったから、これは頭にきて当然であったであろう。興味深いことに、これと見事な相似形をなす出来事が、『種の起原』出版の20年ほど前に、パリのアカデミーで起こっていた。ジョルジュ・キュヴィエとエティエンヌ・ジョフロワ=サンチレールの間に戦わされた、かの「アカデミー論争」である。

キュヴィエにとって、そもそも動物の種という存在は不変・不可侵であり、同じ形態プランを共有した動物群が4つ存在しているとしても(脊椎動物、関節動物、軟体動物、放射動物)、それが互いに無関係に「創造された」からこそ、それぞれ完全に独立した存在なのだ(だから、異なる動物群をつなげることはできないのだ)と考えられた。一方で、ジョフロワは、すべての動物はもともとたった1つの「型」から発している故に、どの動物の間も変形でもってつなげることができるとした。たとえば、イセエビを背腹反転し、内骨格と外骨格を入れ替えれば、脊椎動物を導くことができる。そしてそれを説明するために彼は、キュヴィエの4つの動物群を用いたのであった。キュヴィエがこれをよしとするはずもなかった。何より、キュヴィエ自身の発案した「4大動物群」が、彼の学説を否定する材料に用いられたことが我慢ならなかったのだ。

これら2つの諍いが相似形をなす事を偶然とするのは早計であろう。むしろそれは必然とするべきであろう。そして、その背景にあの時代(19世紀中葉)特有の、自然観をめぐる解釈論の戦いがあったことは明白である。しかもそれは、段階的に意識改革が連なる、1つの流れを形成していると覚しい。

ジョフロワが述べたのは、あらゆる動物を導いた共通パターンの存在であった。したがって、これは一種の「原型論」であり、進化に似ているようで、その実、進化とはまったく異なったものである。なぜと言って、ジョフロワの見たつながりが、決して系統樹の形を成していないからだ(それを最初に視覚化したのはヘッケルである)。彼にとっては、(現在で言う「ウルバイラテリア」のように)統一的な「型」という中心からすべての動物の形が発していたのであるから、その末端に見えるものすべては本来、中心と結びつけられねばならない(放射相称パターンをもつ「原型」であれば、それは19世紀初頭の産婦人科医、カールスが考えた球状のオーガニズム単位にむしろ近かったのかもしれない)。放射動物が本来の型であり、そこから軟体動物がまず出来、さらにそこから脊椎動物と節足動物の2系統が発した、とでもいうのであれば、それは進化論と呼んでもよいであろう。しかし、ジョフロワの結合の線は、ありとあらゆる動物ペアの間に引かれ、それらはさまざまに交叉していたのである。系統樹の枝がそもそも交差しないのとは対照的に……。

「統一的な型」それ自体の姿は常に謎なのであるから、それを推し測るには末端どうしを比べるしかない。サルとヒトを比べるのと同じように、ジョフロワはクジラとヒト、ウニとヒトを、まったく同じ調子で比べたはずなのである。事実、アカデミー論争の火付け役になったのは、軟体動物(コウイカ)と脊椎動物(イヌ)の比較であった。一方で、ジョフロワはそれ以前にも、脊椎動物と節足動物をつなげようとしていたわけであるから、これらが子孫-祖先関係の解明でなかったことは確かである。むしろそこに示されていたのは、ボディプランの無方向な連続性なのである。

では、ジョフロワがそのようなアプローチを採ったのは方法論として原型を導く方便にすぎず、実のところジョフロワの試みは早晩、系統進化に行き着いたはずだと言うことはできるだろうか? おそらくそれもないだろう。当時、ジョフロワを支配していた自然観はいわば「充満の原理」であり、ありとあらゆる動植物のペアの中間型を見出すことができると彼は考えていたのである。つまり、ここにはタクサのヒエラルキーが存在していそうで、じっさいには存在していない。

いずれにせよ、生物に見る多様性の分布がジョフロワに上述のような原型を考えさせたのなら、その表出の要因として、系統進化的変形の連続性か、あるいは、相同性を生みだす発生拘束や、形態発生を司る、進化を通じて保存されたツールキット遺伝子群のセットが控えていると考えて、あながち間違いではないだろう。同じように、「頭蓋が椎骨の並びから出来ているにすぎない」というオーケンやゲーテの「椎骨説」をもたらしたのは畢竟、Hox遺伝子群という発生制御因子の機能の仕方の共通性なのであろう。そのような、「深層の真相」の発露(リードアウト)のみを、科学者は自然界の具体的様相として見ることができ、そこから何を感知するか、どのように解釈するかについては、すでに頭の中にある世界観や時代精神(ツァイトガイスト)に大きく左右されるのである。ジョフロワとは見解を異にしたキュヴィエにしても、「脊椎動物」という範疇においては、明瞭な頭部と背中側に神経管をもち、多くのものは2対の対鰭か手足をもつという共通のボディプランから逃れることができないことは知っていた。多様性の中から共通性を抽出し、その変容のあり方の中にどのような序列や階層を見、その変容を突き動かしたものの正体を見極めるという、自然の理解のステップアップが進化論の歴史なのであり、多様性と連続性の受容には、学者それぞれに進化という歴史の受容のレベルの差だけではなく、自然観の形成にあたっての指向性の差があり、その差に従ってさまざまな戦いが生まれていたのである。じじつ、キュヴィエのボディプラン理解はゲーテの頭蓋椎骨説(それは、脊椎動物の中でも、もっぱら哺乳類に限られていた)より深かったにもかかわらず、ゲーテは自らと同じ指向性をむしろ、ジョフロワに見ていたのである。

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そこで、相同性である。ダーウィンは一体、相同性について何を書いたのか。しばしば誤解されがちなのだが、相同性それ自体は決して進化の証なのではない。決して忘れてならないのは、形態学的相同性を定義したオーウェンその人が、進化論と対立していたという事実である。オーウェンがしぶしぶ進化論を受け入れてのちに、心を入れ替えて相同性を定義したのでは決してなく、むしろ、彼がオーケンやゲーテ張りの原型論を形式化する上で、相同性の概念は必要だったのだ。先験論的形態学において、相同性と原型は不可分のものなのである。つまり相同性とは、先験論形態学においては、その器官の占める場所の一致か、その組織学的構築の一致か、さもなければ発生学的由来の一致でもって保証される。その要件の中には進化的要素は1つもない。そして、このように定義される相同性は、脊椎動物の原型を構成する以上、脊椎動物の範疇を超えることはできなかったのであり、(意外に聞こえるかも知れないが)その理由でオーウェンはジョフロワの「型の統一」理論を認めなかったのである。一方で、ダーウィンがもとめたような相同性の進化的意義が定着するには、ランケスターをはじめとする、『種の起原』以降の相同性の定義を待つよりなかった。『種の起原』における「手の進化」のくだりが、まるでオーウェンの原型論に近い響きをもつのはその故であろう。

『種の起原』の評価に関して一般にイメージされている如く、「生命の連続性」や「進化の受容」の有無でもって、生命観をめぐる当時の戦いを二元論的に解釈することはできない。つまるところ、戦いを作りだすのは、常に歴史なのだ。形態学と相同性と発生学。これは『種の起原』の中で、新しい時代の幕開けを証明するために、あるいはダーウィンによる新しい「世界の見方」を試すために用いられた箇所であるが故に、最も様相が他と異なる部分であるように私には思われるのである。

copyright Kuratani Shigeru 2015

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